試し読み

秘密男女の関係

ボカロP・TOKOTOKO(西沢さんP)の人気曲がオトナの恋愛小説に!

中途採用で入社してきた幼馴染の涼太に再会した日真理。恋人との破局から一転して涼太と付き合うことに。順調な交際の一方で、このまま結婚するのかと心が揺らいでくる。互いに本音を胸の内を秘めた二人の未来は?
秘密男女の関係
  • 原作:TOKOTOKO(西沢さんP)
  • 著者:狐塚冬里
  • イラスト:べて

「ああ、いいところに!」
 ランチバッグを片手に、後輩の女の子たちと外に出ようとしていた時だった。
「愛坂さん、ちょっとちょっと」
 エレベーター前の廊下で谷口部長に呼ばれる。歩み寄るよりも先に、私はすでにランチに行くことを諦めていた。
いいところに、は部長にとってであって、決して私にとってじゃない。それは入社して三ヶ月目には身に染みてわかっていたことで、五年目の今となっては回避する気すら起きなくなっている。
 最近の悩みは抜け毛、という部長のふさふさとした頭を見上げた。三十八歳、妻と二人の娘に恵まれたマイホームパパ。年齢のわりには、体も引き締まっているし柔和な顔立ちもよく見ると中々男前だ。これで極端な暑がりじゃなければと、よく女子社員たちが嘆いている。
七月も中盤に差しかかってくると、オフィスは冷房をつけ始める。その温度設定をいつも勝手に下げてしまう部長は、そんなことで周りの評判も一緒に下げているとは気づいていないだろう。
「どうかしたんですか?」
「ナイスタイミングだよ」
 私にとってはバッドタイミングです。心の中でだけ受け答えをして、笑顔で先を促した。
「今日からうちに来ることになった子がいるんだけど、誰も手が離せなくてね」
 そう言う部長の手には、お財布が握られている。たぶん、部長の手が忙しいのは私と同じ理由だろう。十二時四十五分。ちょうどお昼時だ。
「迎え、行ってもらえる?」
 やっぱり。察していたとはいえ、空腹が収まってくれるわけじゃない。こういう時、ズバッと断れたら気持ちいいのかもしれないけれど、社会人ともなるとそうもいかない。大人は、ほぼ建前で生きている。
「え~? 部長、私たち今から女子ランチなんですよ~」
 私を待ってくれていた後輩のひとり、櫻井絵美ちゃんが可愛い顔で頬を膨らませた。今年二年目の彼女は、私のアシスタントとしてよく働いてくれている。ウェーブのかかったボブカットに、シフォン素材のワンピースがよく似合う明るい子だ。
今年は新入社員を採らなかったから、実質上彼女が一番の下っ端ということになる。つまりそれは、我が社で一番の若手かつ、人気女子ということを差していた。
「うーん、でもねぇ……」
 部長の目が、ちらりと私を見る。女子会? え? 女子? と言われている気がして、目をまともに見返せなかった。ほっといてください部長、今は二十八歳でも女子に入るんです。
「その人、どこに配属される人なんですか? 日真理さんの下とかならわかりますけど」
 援護に入ったのは、今年の四月に中途採用で入社した新山祥子ちゃん。シニヨンにまとめた髪型がおしゃれで、スラリとしたスタイルに女の私でさえつい視線が吸い寄せられてしまう、豊かな胸の持ち主だ。デザイン部なので企画部の私とは部署は違うけれど、なぜか懐いてくれていた。
 社内の人気ナンバーワンとツーに両脇から責められ、部長はますます助けを求めるような視線を私にビシバシ送ってくる。
「配属先はシステム部なんだけど、ほら今リリース前でみんな手一杯だしね? 愛坂さんだったら慣れてるし……あ、そうだ! せっかくだからみんなで一緒にランチ行ったらいいんじゃないかな!」
 名案とばかりに顔を輝かせたのは部長だけで、絵美ちゃんも祥子ちゃんも「ないな」という顔をしていた。この時間から出社するということは、普通の人ならば食事は済ませてから来るだろう。
「新しい人、女性なんですか?」
 それでも、一応聞いてみると、
「ううん。男」
 予想した通りの答えが返された。絵美ちゃんがまた、頬を膨らませる。
「女子会なんですってば~」
「ええっと……」
 部長の目が、腕時計を見てから私を捉えた。無駄な抵抗もここまでのようだ。
ここで私が折れれば丸く収まるし、一応は渋ったので約束をしていた後輩たちにも言い訳ができた。たぶん、こんなふりをしなくても、私が最初から折れるだろうことは、部長も彼女たちも気づいていたとは思うけれど。
「わかりました。受付に行けばわかりますか?」
 あからさまなほどにほっとした部長に、苦笑してしまいそうになる。それを堪えて、唇を引き上げた。大人になるにつれ、お化粧と愛想笑いだけはどんどん上達していると思う。子供の頃からなんでもないふりは得意だったので、すでに達人の域に達している気がする。
「え~、日真理さんパンケーキは?」
「ごめんね、また今度一緒に行こう? 今日はふたりで食べてきて」
「日真理さん、人が良すぎますよ。今度、絶対ですからね」
「うん」
「行こ、絵美ちゃん」
「は~い。……部長のオニ!」
 去り際にぼそっと呟いた絵美ちゃんに、部長が苦笑をこぼす。それだけで済んでいるのは、うちがベンチャー企業であり、さらにゲーム会社だからだ。お堅い会社ならば、ぎょっとされるような光景だろう。
クリエイティブな仕事をしているせいか、我が社は自由な気風があった。社員同士の仲も良く、上下の風通しもいい。これで残業がもう少しすくなければ言うことなしのホワイト企業なのだが、残念ながら担当したゲームのリリース前は、終電で帰る、なんてことも珍しくなかった。
「櫻井さんは相変わらずだねぇ」
 エレベーターに乗り込んで行くふたりを見ながら、部長が言う。その口調はのんびりしていて、不快に思っている雰囲気は微塵も感じられなかった。可愛い子は得だな、と思いかけてすぐにその考えを打ち消す。人の容姿を羨むのは学生時代に終わりにしようと決めたはずだ。
 適当に相づちを打っておいてから、本題に入った。
「それで部長、新しく入る方のIDカードは総務ですか? 受付に行くなら一緒に受け取ってこようと思うんですが」
「え? ああ、まだ。明日にはできるんじゃないかなあ」
 うちのオフィスは入口にセキュリティーがかかっており、出られはするが、IDカードがなければ中に入れない。
「だから今日は色々お世話してあげてね」
「……システム部配属なんですよね?」
 私の仕事ではないのではないでしょうか。
「うん。だから会社に慣れるまでは、愛坂さんが教育してやってよ。システム部って男ばっかで面倒見も悪いだろうし」
「はぁ……」
「一週間くらいでいいからさ」
 一週間。いいところにいた、と偶然捕まえられたにしては、随分と長く拘束されるようだ。内心で苦笑した。けれどこういうことにはもう、慣れっこだ。
「わかりました。書類とか、ありますよね? いただけますか?」
 迎えに行くのも、一週間の教育係も引き受けるしかなさそうだ。それなら、新しい人の経歴くらいは知っておきたい。しかし、そんな基本的なこともすんなりとはさせてもらえないのがこの会社で。
「ん~、人事が持ってるはずだけど、今みんなお昼出ちゃってるねぇ。大丈夫大丈夫。受付行けばたぶんわかるから」
「たぶんってそんないい加減な……」
「あはは、ごめんねぇ」
「いいですよ、慣れました。それで、お名前はなんておっしゃるんですか?」
「ん?」
「え?」
 一秒、部長と見つめ合ってしまった。
「なんて言ったっけなぁ……。ここまで出てるんだけどね、ここまで! うーん、ありきたりでも珍しくもない中途半端な苗字だったのは覚えてるんだけど……」
 勝手に忘れておいて、中途半端とはまた失礼な感想だ。たまに部長の外での態度が心配になってしまう。
「……わかりました、なんとなく見つけます」
「うん、なんとなくよろしく」
 自由な気風というのも、こういう時は困りものだ。
 出迎えに行くのに顔どころか名前すらわからないなんて、ゲームじゃないんだからと思う。
こういう時、きちんと受付に人が座っているような企業が羨ましい。受付嬢が訪問者の名前を記録しておいてくれるからだ。しかし残念ながら、我が社の受付には開発したゲームのキャラクターぬいぐるみたちと、呼び出し用の電話が置かれているだけ。それも、ぬいぐるみが多すぎてたまに電話を見つけられない人もいるというのだから、ちょっとレイアウトを考えた方がいい。
「じゃあ、よろしくね」
 ちょうどよく来たエレベーターに、部長はそそくさと乗って行ってしまった。知ってますか部長。受付も、エレベーターを使って下に下りるんですよ。
 溜息をひとつ飲み込み、しっかりとエレベーターのドアが閉まってから下行きのボタンを押した。
 都合よく使われているなという自覚はある。けれど、それに一々目くじらを立てるほど、不満にも感じていない。企画の仕事は楽しいし、お使い程度のことをして借りを作っておけるのなら、今後仕事でお願い事もしやすくなるし、かえって得だとすら思っている。
 腕時計で時間を確認すると、そろそろ一時になろうとしていた。たぶん、新しい子はすでに待っているはずだ。あまり待たせると悪い。早く来ないかなと点灯しているエレベーターの階数表示を見上げた。
 二基あるうちの一基が、ようやく最上階まで上がり切って下りて来る。けれど、上層階での留まり具合を見る限り、ランチへ行く社員でいっぱいだろうことは簡単に予想がついた。
 私が働いているフロアは五階。受付は二階。三階分程度ならば階段を使ってもいい。自分のヒールの高さをちらりと確認してから、非常階段へと足を向けた。
 普段、会社にそこまで高いヒールを履いてくることはあまりない。やはり一日履いていると疲れるし、こうして非常階段を使わなくてはいけなくなった時に危ない。それに、高いヒールを鳴り響かせながら下りるのは好きじゃなかった。あのこもった空間で聞く、カンカンという甲高い音は、そんな気がなくても怒っているみたいに聞こえてしまうからだ。
 幸い、今日のヒールは三センチもない。これならそこまでうるさくもないだろう。
 なるべく音を鳴らさないように階段を下りながら、自分の手にお財布と携帯だけが入ったランチバッグがあるのを見て「あ」と思う。外出用の小ぶりのバッグは、いかにもランチに行くところです、という雰囲気を醸し出している。これで迎えに来られるのは、新しい人も微妙だろう。一度戻ろうかと下りて来た分の階段を見上げ、やめた。階段は、下りるのはいいけれど上がるのは疲れる。体力の減退を年のせいにしたくはないけれど、こういう時、年かなと思う。
ふと、さっき「部長のオニ!」と言ったのが私だったらどうなっていただろうと考える。
ぎょっと固まる部長の顔を想像して、ないなとすぐに頭の中の想像を打ち消した。年を取ると失うのは、健康でも若さでもなく、こういう無邪気さだと思う。
 つい先月、私は二十八になった。
 まだ若いと思う。まだ。だけど、当たり前のように絵美ちゃんがやっていることを、自分にはもう無理だなと思う瞬間、『まだ』で大丈夫なのかとふっと不安が過ぎった。
 うちは古い体制の会社ではないし、プランナーという職種から言っても、早く引退しろ的な空気を出されることもない。お局様なんて言葉はうちに限って言えば聞いたことがないし、居心地はいいと思う。けれど、私より年上の女性社員は数える程度しかいない。それも、全員既婚者だ。
 こういう時、男の人は楽でいいなと思う。三十を超えて未婚だろうと、まだまだこれからだと言ってもらえるからだ。それを羨ましいと思うのはきっと、私だけじゃないと思う。
 そういえば、新しい子の年齢を聞いていない。無意識に『子』と言ってしまっている自分に苦笑が漏れた。今は七月。中途採用だろうから、私より年上の可能性だってあるのに。
 そんなことを考えているうちに、二階に到着していた。重い鉄製の扉を開けると、エレベーターから少し離れた位置に出る。
 受付ロビーには、座り心地よりもビジュアル面を重視した赤いソファが置いてある。カフェのように丸く設置されたそれには、数人の男性が腰かけていた。誰が、当たりだろう。
そのうちのひとりは、すでに社員が迎えに来ているから違う。残る三人うちの誰かが、中途半端な苗字の持ち主だ。
 少し離れた位置から眺めていると、ひとりが私に気づいて顔を上げた。若い子だ。それもそこそこ……いや、かなり美形だと思う。反射的に会釈したけれど、相手が私を知っているはずもない。社交辞令的に返された会釈のあと、視線が離れていく。
 あんな子が来たら、しばらく社内がざわつきそうだ。女の子たちの反応を想像するだけで、少し疲れてしまう。美形というのは目の保養にはいいけれど、あまり近くにいると思わぬ弊害が出てくるものだ。
 さて、と改めて見回して困った。今の若い子以外、誰も私の存在を気にしている人がいない。やはり、足が疲れてもそれらしいファイルを取りに戻るのだった。ランチバッグでは、どうも締まらない。
 待っている男性たちが、携帯や腕時計で時間を確認し始めた。時刻は一時五分。迎えが来るならそろそろだと考えているのだろう。私以外の社員のお迎えを待ち、最後のひとりになってから声をかけるという手もあったけれど、それも申し訳ない。
「お待たせいたしました」
 呼びかけた途端、全員が私に顔を向ける。一歩引いてしまいそうになるのを堪えて、続けた。
「システム部所属でお待ちになっている……」
 名前がわからない。ここで立ち上がってくれるといいなという期待の下見渡すと、ゆっくりと腰を上げる人がいた。さっきの、若い子だ。
「お待たせしました。企画部の愛坂です」
「……いえ。よろしくお願いします」
 想像していたよりも、声が甘い。立つと細身なのに上背があり、見上げる形になった。
容姿も声もスタイルもいいなんて、困った。これで家柄も良かったりしたら、パーフェクトになってしまう。新作ゲームのリリース前だけに、仕事が手につかなくなる子が出ないといいなと思う。
見た目的にいくつか下に見えるけど、落ち着き具合からすると同い年くらいなのかもしれない。企画部、というくだりが引っかかったのか、返事にわずかな間があった。少しだけ、笑顔も硬い気がする。
こちらが名前を言ったら、同じように名乗ってくれないかなという期待が少しあったのだけど、残念ながら彼にはその気持ちが通じなかったようだ。新しく迎える人の名前もわからないというのも、随分と情けない。しかし、「お名前はなんて言うんですか?」なんて初っぱなから不安にさせるのも気が引ける。これは、自己紹介タイムまでどうにか名無しさんで乗り切るしかないようだ。
つい顔を見上げていると、顔を逸らされた。その決まり悪げな表情に誰かの顔が重なる。今頭を過ぎったのは、誰だっただろう。
「ご案内しますね」
 喉の奥に魚の小骨がひっかかったような感じを残したまま、先だって歩き出す。
 入ったばかりの子を非常階段で上らせるのも気が引けるので、戻る時はエレベーターを待った。上がりならば、満員で入れないということも今はまだないだろう。
「まだIDカードのご用意がないので、フロアを出る時は携帯を持って出るようにしてください。戻る時はドア近くの社員に開けてもらってもいいですし、内線に連絡してもらえれば私が開けますから」
「わかりました」
「契約……ではなくて、正社員採用ですか?」
「ええ、中途で」
 エレベーターを待つ時間が、長く感じられる。普段、世間話をするくらいなんてことはないけれど、なぜか今はやりづらかった。喉に刺さった小骨のせいかもしれない。
この子とはどこかで会っているような気がするのに、上手く思い出せなかった。そもそも、こんな美形だったらそう簡単に忘れるはずもないと思うのだけど。
 すでに聞いているだろうとは思いつつ、社の簡単な決まりなどを説明しているうちに、エレベーターが到着する。中は空っぽだった。
「どうぞ」
 扉を押さえて中へ促すと、彼は会釈をしてから入り中のボタンを操作して、
「どうぞ」
 と私へと言い返した。こんな短い間にドアが閉まることもないだろうけど、小さな気遣いにドキリとする。ああこの人、モテるんだろうなと。行動にそれが滲み出ている。もっとも、行動に出ていなくても彼の場合、顔だけでも充分モテるとは思う。
「すみません」
 愛想笑いを向けてから、五階のボタンを押した。システム部も、企画部と同じフロアにある。
 二階から五階に上がるまでの短い時間のはずなのに、狭い個室内の沈黙が重い。居心地の悪さに話題を振ろうと顔を上げると、目が合わなかった。彼があらぬ場所を見ていたからだ。最初はランチバッグを見られているのかと思ったがそうじゃない。どうやら彼は、私の爪を見ているようだった。
「あの……?」
「あ、すみません。そのマニキュア……きれいな色だなと思って」
「え……」
 正直に言おう。男性にマニキュアを褒められたのなんて初めてだ。そもそも、恋人以外の男性が、そんなにマニキュアを見ているなんて思いもしなかった。
「……ありがとうございます」
 私の爪は、褒められるような特別なことをしていたわけじゃない。サロンに行っているわけでもないし、自分で塗っているだけのものだ。
彼がきれいだと言ってくれたカラーは、パールが少し入ったワインレッド。主張し過ぎず、けれど落ち着きのある大人の色。先週、今付き合っている彼氏から似合いそうだとプレゼントされたものだ。それを褒められて、悪い気はしない。でも少しだけ、胡散臭いと思ってしまった。
 美形だからというのもあれだけど、褒め方が慣れ過ぎていて結婚詐欺のようだと思う。それとも、普段から自然と女性を褒めるような外国ナイズされた人なのだろうか。
「あの……」
「はい?」
 ご趣味は……と思わず聞いてしまいたくなるような、完璧な笑顔だ。完璧なのに、どうしてだろう。何か違和感を覚えてしまう。違和感というほど大きなものでもないのだけど、何かがずれているような感じがする。
「……前職は何をされてたんですか?」
 顔が良くて、気遣いもできる。それに、着ているスーツもおそらくブランドものだ。羽振りまでいいとなるとますます胡散臭い。
「同じです。プログラマですよ」
「……ですよね」
 なんてことはない会話に、首を傾げる。どうしても、違和感が消えなかった。
敬語がおかしいのだろうか。いや、そんなことはない。初対面にしてはややフランクではあるが、慇懃無礼よりもよほど好感が持てる。
 ──初対面。本当に、彼と私は初めて会ったのだろうか?
どこかで会ったことをきれいさっぱり忘れてしまっているのではないかと疑うが、それならふたりして忘れ合っているということになる。それにこの顔。一度会えば、酔ってでもいない限り覚えているはず……と考えて、はっとした。それだ。
 二年前に今の彼氏と付き合い始めてからは行っていないが、それ以前なら人数合わせで何回か合コンに出たことがある。そこに、いたのかもしれない。二年も前のことなら、記憶が薄れていても不思議じゃない。それに大学時代の友人は面食いが多いから、この子とどこかで繋がっていたら、なんとしてでも呼ぶはずだ。
 ちょっとだけ、すっきりした心地で横を向く。
「聞いてもいい?」
 急に敬語を崩した私に、彼は不審そうな顔ひとつ見せず笑顔で先を促した。
「私たち、会ったことない?」
 喉の奥に刺さった小骨を取り除きたい。本当にそれだけのつもりだった。それなのに。
「……すみません」
 困ったような顔をされ、右手を見せられた。薬指にはまった、指輪を。
「……っ!」
 下手なアピールだと勘違いされたのだと気づくのに、数秒かかった。カッと頬が熱くなり、即座に否定の言葉が出てこない。恥ずかしさのあまり、咄嗟に背を向けた。
 いくらなんでも、この誤解は恥ずかしい。海辺のナンパじゃないんだから、こんなエレベーター内で、しかもこれから同僚になる人を口説こうとしたなんて思われていたら、これから先どんな顔で接していけばいいのかわからない。
早く誤解を解きたいと焦れば焦るほど、気持ちばかりが空回って何も言えない。そうこうしているうちに、ポーン、と聞き慣れた音が聞こえ、目の前のドアが開いた。
 降りなければ。でも降りたらもう誤解を解く機会を失う。
 五階以外の階数ボタンが押されていないエレベーターの扉が、私の目の前でゆっくりと閉じようとしていた。このままだと、私たちはこの狭い箱の中に閉じ込められてしまう。
あと五センチ、というところで背後から伸びた長い腕が、私のすぐ目の前にある『開く』ボタンを押した。
「着いたんじゃないですか?」
 爽やかな声。見てはいけないものでも見るような気持ちで振り返ると、やはり完璧な笑顔が私を見下ろしていた。