試し読み

虚白ノ夢

自らの存在意義を否定して身投げした少女、碓氷深白。
そんな彼女が目を覚ますと、そこは天国でも地獄でもない、『鏡の世界』と呼ばれる仄暗い空間だった。
記憶をなくした彼女はその世界で出会ったユズやリョウタロウと共に、理不尽な世界の捜索を始める。
全ては、ミシロが抱きながら死んだはずの〈願い〉を叶える為に。

「――この世界で鏡を探しなさい。そして、それを割るの」
虚白ノ夢
  • 原作:カナヲ
  • 著:諸口正巳
  • イラスト:野崎つばた

 思えばつまらない人生だった。
 楽しいことがひとつもなかったとまでは言わない。
 しかし、もう一度同じ人生を歩みたいかと問われれば全力で否定できる。
 どちらかと言えば、もうすべてが嫌になったので、私の人生が初めから存在しなかったことにしてほしい。
 ――だから私、碓氷深白は、一七回目の誕生日を迎えることなく、こうやって身を投げるのだ。

〈白ノ章〉

 はじめは、水の流れる音だと思った。
 しかしその水音は、ささやきにも聞こえた。
 女なのか男なのかもわからない、そもそも人間の声なのかどうかもさだかではない。大勢が話し合っているようで、独白が続いているようでもある。かさこそとした、音に似た声たち。
『うまくいった』
『こんどこそ』
 最後に、静かな水面に水滴が落ちる、澄んだ音がした。
 それきり、謎めいたささやきは止んだ。
 あとは、静寂。
「…………」
 少女はゆっくりと目を開け、半身を起こす。少女は何もない暗闇の中に横たわっていた、ようだ。意識は早朝に目覚めたときよりも曖昧で、自分の身体のすべてに違和感をおぼえた。しかし――。
 いったい自分の身体が本当はどういうものであったのか、思い出せない。もともとこういうものだったのかもしれない。そもそも自分は……、どんな人間、だった?
 少女の目に映るのは、いちめんの暗闇だった。手をついている地面は、床にも見える。やけにひんやりとしていた。光源は何もないに等しいが、自分の身体と地面ははっきり見える。
 白い手。黒い……、制服。
 頭が重い。身体も、重い。まるで病み上がりだ。
 ――ここは……、どこだろう。
 少女には何も思い出せない。
 ――私は今まで何を……。
 何も思い出せなかった。
 ただ、胸の奥に痛みが潜んでいる。気分は晴れず、気力が湧かない。この状況も、自分がなにものであるかも、もう何もかもがどうでもいい――そんな絶望に似た気持ちが、胸の痛みとともにある。
 このままずっと、ここでうずくまっているか、横たわっていてもいいのではないか。少女は深いため息をついて、目を閉じようとした。
 そのとき、青い光が、視界を横切ったような気がした。
 驚いてあたりを見回す。暗闇は暗闇のままだったが、目が慣れたのか、頭上の様子がうかがえるようになっていた。
「水……の、底……?」
 少女は目を見張り、息を呑む。はるか頭上には水面があり、どこまでも続いていた。時折波紋が広がり、おぼろげな月がゆらゆらと浮かんでいる。黄色く枯れた葉が一枚、波紋にもてあそばれている。
 すべては無音だ。水音も聞こえない。
 ここは水の底なのか。しかし、髪も服も濡れていないし、呼吸もできる。
 すっ、と青い光が、また視界の隅で動いた。ずっと遠くで炎が揺れているように見える。
 そしてその青に、少女は、促されたような気がした。いつまでも寝ていないで、こっちに来い、と。誰かが無言で、ずっと自分を見つめているような気がして、落ち着かない。
 仕方なく、少女は立ち上がった。足が重い。身体じゅうが重い。動くのはひどく億劫だったが、それは、はじめのうちだけだった。
 歩いているうちに、だんだん、身体の違和感が気にならなくなってきた。あるいは、ただ単に慣れてきただけなのかもしれないが。
 しかし、肝心の青い光は、いつしか消えてしまった。
 それでも、前に進むことはできた。何かが……見えてきたのだ。青い光はまるでまぼろしのように頼りないものだったが、それは物体であるとはっきり認識できた。そして、ちゃんと、近づいている。少女は、自分でも気づかないうちに、早足になっていた。
 それが『鏡』であるとわかったとき、少女の足は一瞬止まった。
 楕円形の大きな鏡だ。それは宙に浮いていて、ぴたりと静止している。まるでヨーロッパ産の骨董品のような、壮麗な金の額縁だった。
 鏡には、床が映っていた。
 だが、少女の姿は映っていない。
 手を近づけてみても、映らない。少女はすぐに手を引っ込めた。なんとなく、触れるのがためらわれた。
 自分は今透明にでもなっているのかと、少女は手を見る。
 鏡をもう一度見上げる。
「!」
 そこには、少女の姿が映っていた。確かに、つい一秒前まで、床しか映っていなかったはずなのに。
 黒く長い髪には癖がある。肌は白い。顔立ちは……、かなり整っているほうだろう。だが、その大きな黒い目は、どんよりと濁っていた。よくある『死んだ魚のような目』という表現がぴったりだ。
 黒い制服はわりとよく似合っていた。黒を基調とした地味なデザインだ。胸元のリボンは臙脂色だった。ポケットにわずかな重みを感じ、中に手を入れると、鍵が入っていた。キラキラとかがやく、かわいらしいクマのキーホルダーがついている。
 ……自分は、高校生、なのだろうか。
 少女は、それが本当に自分であるのかどうかもわからない。初めて見る顔。知らない女の子。だが、見覚えがあるような気がしないでもない顔。
 そして、また、違和感だ。
 この鏡は何かがおかしい。いや、宙に浮いている時点でだいぶおかしいのだが。
 自分は今戸惑っているはずだが、表情が動いていないのだ。
 おまけに、まばたきのタイミングが……合っていない。
 少女がそれに気づいてぞっとした瞬間だった。
 にんまりと、鏡の中の少女が笑ったのだ。
『ハロー、私』
「――!?」
 鏡の中の少女はちっとも驚かない。そればかりか、微笑みを浮かべたまま話し出した。
『私はあなたで、あなたは私。何を驚いているの? 鏡なんだから当たり前でしょ』
 少女は言葉を失って立ち尽くしている。鏡の中の少女は、少し意地の悪い微笑を消すことなく、勝手に動いて、勝手に喋り続ける。
『おっと。今の私は記憶を失っているんだった。……心配しないで、私。私は記憶の取り戻し方を知っているの』
 それを聞いた次の瞬間、
 ――何も思い出さないほうがいい――
 少女の頭の中に、そんな考えが浮かび上がった。いや、これはむしろ、
 ――何も思い出したくない――
 のでは、ないか。
 しかし、鏡の中の少女は、それを許す気がないようだった。
『さあ、鏡に映った自分の目をよく見て』
 ――いや。
 少女は拒絶した。鏡の中の少女に対して、嫌悪感も生まれ始めていた。これは、ぜったいに、自分ではない。そんな確信も、今ならある。自分はこんな笑い方をしない。自分はこんな口調ではない。こんな顔立ちだったかもしれないけれど、これは、自分では、ない。
 気力の感じられない、深淵のような黒い瞳から、少女は目をそむけた。
『――誰が目をそらしていいと言った?』
 氷のような声が、鏡の中から飛んできた。
 それは少女の心に突き刺さった。
 暗い、漆黒の世界が揺れる。頭上の水面がざわめく。月の光がみるみるうちに大きくなって、少女を包み込んでいった。

 気がつくと、少女は、見覚えのある部屋の中にいた。自分が誰なのかもわからないままだが、まるで条件反射のように、自然とほっとしていた。
 ここは、自分の部屋ではないだろうか。いや、きっとそうだ。
 家具や間取りのすべてを知っているような気がした。
 クローゼットがかなり大きい。開けてみると、中は黒や暗色の服でいっぱいだった。どれもフリルがふんだんに使われている。ゴスロリ……、いや、これは、ゴシック系の服だ。
 似合うかどうかはともかく、着てみたい。少女は素直にそう思う。どれもこれも、ひと目で気に入った。
 次に目を惹いたのは、大きなクマのぬいぐるみだった。つぶらな黒いガラスの目は、じっと少女をみつめている。
 かわいい。少女は、このクマのぬいぐるみも、すぐに気に入った。そして不思議なことに、服よりも何よりも、このぬいぐるみは大切なもののような気がした。
 ぬいぐるみは学習机のとなりに置かれている。机や本棚は教科書や資料集、テキストでいっぱいだ。翻訳物やハードカバーの小説はあるが、漫画は見当たらない。
 雑誌は何冊かあったが、すべてファッション誌だった。しかも、ゴシックやゴスロリのブランドを取り上げたものだ。
 この部屋の主は、わりと真面目で、勉強熱心らしい。ファッションにはある種のこだわりがあるようだが。……誰が見ても、そんな印象を受けるだろう。
 しかし少女は、机のまわりを見ると、少し嫌な気分になった。息が詰まるようだ。
 机の上には鞄がある。おとなしめ――というよりは、地味な鞄だ。少女はそれに手を伸ばし、中を探った。
 内側のポケットに、学生証が入っている。
 菊花宮学園、1年2組。
 少女は納得した。制服や鞄がやけに地味であること、机のまわりがほぼ勉強一色であることに。菊花宮学園といえば、有名な「お嬢様学校」だった。偏差値も高く、中学生の頃に遊び歩いていてはまず入れない。この部屋の持ち主はきっと、並みならぬ努力をして、お嬢様たちの園に――
 少女は凍りついた。
 どうして。
 菊花宮学園の生徒が、こんなナイフを持っているのか。
 それは机の引き出しからみつかった。いっそ美しささえ感じられる、なめらかなカーブを描いた刃。頑丈そうでいて、優雅な木製の柄。鉛筆を削るのには大げさすぎる。カッターナイフならいざ知らず、なぜ、高校生が所持しているのか。
 刃は白くかがやいた。
 少女の手は吸い寄せられるようにして、ナイフの柄をつかんでいた。
 このナイフにも見覚えがある。柄の感触にも覚えがある。あまりいい思い出ではない、気がする。ぞわぞわと、心の内側がうごめきだす。
『どうして?』
 少女の心の内側から、そんな思いが這い出てきた。
『どうして私は、まだ生きているの?』
『失敗したってこと?』
『そうだ失敗したんだ私は』
『今度こそ』
『確実な方法で』
『今こそ』

「死ななきゃ」

 少女はぽつりとつぶやいた。ナイフの刃に映る瞳の中で、黒い闇が渦巻いている。それを見たのは一瞬だった。あとにはもう、考え込む時間など残されていなかった。自分は死ななければならないのだ。死ぬためにあの場所に行った。自分がまだ死んでいないならば、
 今!
 どツり、と少女の喉にナイフの刃が突き刺さる。
 自分の手で、自分の喉に、ナイフを刺した。喉の中に、冷たいような熱いような異物が入り込む。痛みよりも、息ができない苦しさと違和感。温かい血がとめどなく、喉から口からあふれて、手と服を汚す。
 げはッ、と咳き込んで、引き抜く。ほとばしる鮮血。どちゅりと、もう一度。ぐちょりと、もう一度。もう一度――刺そうとして、少女は倒れた。意識はぶっつりと途切れた。
 たぶん、死んだ。
 何かが壊れる音がした。これは……、ガラスが割れる音。
 鏡が割れる音。

「……!」
 しかし、少女は再び、意識を取り戻していた。倒れてもいないし、呼吸もできる。服にも手にも血はついていない。そして周囲には、闇が広がっていた。目の前には、鏡――。
 割れている。美しい額縁を残して、鏡は粉々に砕け散り、少女のまわりに散らばっていた。
 少女は呆然として、手を開いたり結んだりした。血まみれになったはずの手は白くきれいなままだが、感触は残っていた。ナイフを自分の喉に突き立てた感触が。
 少女ははっと息を呑んで、一歩後ずさった。地面に落ちているのは鏡の破片だけではなかった。つい今しがた自分の命を絶ったはずのナイフが、足下に落ちていたのだ。刃は鏡よりも鈍くするどく光っている。やはり血は一滴もついていない。
 ナイフのそばには大きな鏡の破片があり、少女の驚いた顔が映っていた。鏡の中の少女だけが、にんまりと笑う。
『おかえり。鏡の中で自分を殺した感想はどう?』
「ッ」
『なあに、そんな顔して。文句でもある? 誰が記憶の取り戻し方を教えてあげたと思ってるの?』
「……え? ……あ……」
 記憶。
 少女は目を泳がせた。たくさんの鏡の破片の中に棲む少女だけが、勝ち誇ったような笑みを浮かべている。くすくす笑いながら、鏡の破片は問いかけてきた。
『あなたはだあれ?』
「……碓氷深白……」
『ここに来る前、何をした?』
「鏡湖に……湖に身を投げて、自殺――」
 少女は――ミシロは、鏡から頭上に目を移した。空と言っていいのかわからない暗黒のうえで、音もなく波紋が広がっている。
『ほらね。いくらかだけど、思い出したでしょ?』
 鏡は語る。ミシロは足下の鏡に目を戻す。しかし、不思議なことに、どの鏡の破片にも、もうミシロの顔は映っていなかった。鏡はただ、暗黒と、はるか上の水面をおぼろげに映すばかりになっていた。
『この世界――〈鏡の世界〉で、鏡を探しなさい。そして、それを割るの。この世界に点在する、あなたの姿が映る鏡は、あなたの記憶を映す鏡。割り方はもうわかったでしょ? 鏡の中でサクッと自分を殺すだけ。二回も自殺したあなたには楽勝よね』
「……鏡を、割る……。……何のために?」
『〈望み〉を叶えるため。自分の姿が映る鏡をすべて割ったとき、あなたはすべての記憶を取り戻す。そして同時に、〈望み〉が叶う。この世界には、その力がある』
 声はどこか、おごそかに語った。
 今や声は、鏡の中からではなく、あらゆる角度、あらゆる次元を越えて、ミシロの心に直接届けられている気がした。この世界のすべてが、ミシロの声を借りて、ミシロに語りかけていた。
『いい? 鏡は見るだけじゃだめよ。必ず割りなさい。これはこの世界が創られる前から定められているルール。〈望み〉が簡単に叶うほど、世の中そんなに甘くないってこと。……あ、ここは「この世」でも「あの世」でもないんだった。ま、些細な齟齬よね』
「……私の、〈望み〉……」
『もう思い出してるでしょ? あなたがそのとほうもない〈望み〉を持つに至った理由までは、まだわからないだろうけど。でもそれも、すべての鏡を探して割れば、必ず思い出せる』
 ミシロは何も言わず、ただ唇を引き結んだ。
『あ、説明に一生懸命になってて言い忘れてた。そのナイフはこの世界からのプレゼント。きっと役に立つから、持っていきなさい』
 ミシロはナイフを睨む。鏡に見せられた記憶の中で抱いた、このナイフへの印象は変わらない。忌まわしく、疎ましい。その理由はわからない――まだ、思い出せないだけか。
『それじゃ、頑張ってね。期待してるから。バーイ、「私」』